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総合ニュース
2010-11-25 09:36    
韓国国防部「北が約170発砲撃、約80発が延坪島着弾」
韓国国防部「北が約170発砲撃、約80発が延坪島着弾」

北朝鮮が23日午後、黄海上の北方限界線(NLL)に近い仁川・延坪島とその近海に向け、2回にわたり計170発余りの砲撃を加え、うち80発余りが延坪島に、90発余りが付近の海上に着弾したことが明らかになった。国防部が24日、国会国防委員会への業務報告で明らかにした。韓国軍は自走砲「K−9」で、敵の砲陣地2か所に計80発応射した。
砲撃により、韓国の軍人2人、民間人2人の死亡が確認されたほか、軍人や民間人にも負傷者が出た。また、地元自治体によると民家9棟が全焼したという。

北朝鮮砲撃:火の海と化した延坪島(1)

「パン、パン、パーン」
 23日午後2時34分ごろ、仁川から145キロ離れた西海(黄海)上の島、延坪島。午前の操業を終えて戻った漁船が埠頭(ふとう)にいかりを下ろしていた漁村の平穏な時間は、鼓膜を破るような砲弾のごう音でさえぎられた。ごう音と共に激しい振動、砲弾が爆発する際に光る閃光(せんこう)…。
 北朝鮮が撃った砲弾は534戸、1300人以上の住民が暮らしていた延坪島全体を、一瞬で阿鼻(あび)叫喚の中に追いやった。
 住民らは当初、韓国軍の誤爆だと思っていた。しかし間もなく面事務所(村役場に相当)の拡声器から「実際に起きていることだ。急いで避難所に避難しろ」という緊迫した声が聞こえてきた。東部里の住民キムさん(35)は、「家の中にいたが、体が飛び上がって落ちるような衝撃を感じた。本能的に家から飛び出し、慌てて避難所(防空壕〈ごう〉)へと走った」と話した。
 延坪島で任務に当たる海兵隊の息子に面会に来ていたハン・ミスンさん(52)は、「車で埠頭に向かっていたが、急に『シャー』という音と共に、車の上を砲弾が飛んでいった。両足の靴が脱げたことにも気付かないほど慌てて船に乗り込んだ」
 子どもたちは怖がって泣き叫び、民家のガラス窓は爆発の衝撃波で粉々に砕けた。砲弾は、延坪面(日本の村に相当)事務所と東部里のパクさん宅を直撃し、西部里のペクさん宅の裏、南部里の民家の横にも落ちた。住民らは100メートルごとに1発程度の割合で落ちたようだと話した。パク・チョルフンさん(54)は、「道路のあちこちが10センチ程度の深さにえぐられていた。40−50センチ大の砲弾の破片もあちこちに落ちている。破片に当たったら即死していただろう」と話した。別のある住民は、「怖くて家でぶるぶる震えていたが、バンという音と共に、家のドアが外れて遠くへ飛んでいった」と話した。
 砲弾からの火の手は漁村の家々にあっという間に燃え広がった。あちこちで家庭用→液化石油ガス(LPG)ボンベが爆発し、砲弾よりもさらに大きな爆発音を響かせた。
北朝鮮砲撃:火の海と化した延坪島(2)

 西部里で民宿を経営しているナ・ヨンオクさん(44)は、「村全体が煙で覆われ前が見えず、まさに火の海となった」と話した。仁川に来ていたソン・ボクスンさん(56)は、「延坪島の夫と電話で話したが、村の道路が焦土化し、近づくことも難しいと言っていた」と語った。

 10時間よりも長く感じられた1時間。砲声は午後3時40分ごろ止んだ。避難所に慌てて非難し、ちょっと村の様子を見ようと出てきた住民らは、その上に山火事が広がっていることを知りじだんだを踏むしかなかった。西部里に住むファン・オッキさんは、この日午後6時ごろ、本紙との電話で「村を囲む山がすべて赤い火の海のようだ。民家の火は消すこともできるが、山火事はどうしようもない」と話した。

 この日夜、仁川から船で消防車が次々と到着したが、強風によって広がる火の手を消し止めるのは難しい、と住民らは語った。住民のイ・ジョンシクさんは、「一歩間違えば、山火事が民家に燃え広がって延坪島内の600戸がすべて燃えてしまいそうだ。目の前で燃えているのに、水もなく、どうすればいいのか分からない」と悔しがった。

 この日、北朝鮮の砲撃で420戸の電気供給が止まり、携帯電話基地局機能がまひする中、一部の住民らは家族の生死が確認できず、気をもむ場面も見られた。住民のイさんは「小学生の娘が避難所に行っているようなのだが、連絡が取れない」と言葉を濁した。農協で行っている研修を受けに仁川に出てきたというチョン・エスクさん(48)は、「夫としゅうとめが延坪島にいるが、夫と午後3時ごろ電話で話したのが最後だ。住民たちは皆不安で震えていると言っていた」と話した。

 砲声がやんだ延坪島は、すぐに日が落ちて暗闇に包まれた。暗闇とともに寒さと恐怖も訪れた。延坪島を離れられない住民900人余りは避難所10カ所などで、インスタントラーメンやパンで空腹をしのぎ、眠れぬ夜を過ごした。900人中140人ほどが家に戻った。避難所の住民は十分な食べ物も、温かいお湯も、服もほとんど持ち出せなかったが、「それでも避難所の方がましだろう」と自らに言い聞かせていた。チェ・ユルさんは「避難所に住民30人ほどが着の身着のままで避難してきたが、今も不安な思いで状況を見守っている。(携帯電話の)バッテリーがあまり残っておらず、長く通話することができない」と急いで電話を切った。

 北朝鮮が撃った砲弾は、素朴なこの島民たちの生活の基盤をめちゃくちゃにし、心に消すことのできない傷を残した。

李碩浩(イ・ソクホ)記者
ハン・スヨン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

延坪島(ヨンピョンド)

延坪島(ヨンピョンド)は、京畿湾北西部に浮かび大韓民国(韓国)が統治する2つの島の総称。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が統治する甕津半島の南12kmに位置し、軍事境界線(北方限界線)近くの島である。
延坪島(ヨンピョンド/ 6.19 km²、地図座標: 北緯37度40分0秒 東経125度41分47秒)と小延坪島(ソヨンピョンド/0.94 km²、地図)の2つの有人島からなり、仁川(インチョン)広域市甕津郡延坪面にある。黄海(ファンヘ)上にあって、白翎島、大青島(テチョンド)、小青島とともに、「西海五島」と呼ばれる。

立地から軍事的にも重要な島となっている。近年も周辺海域で第1延坪海戦(1999年)、第2延坪海戦(2002年)、延坪島砲撃事件(2010年)などの武力衝突が起こった。韓国側では延坪島に1000人規模の部隊を駐屯させており、北朝鮮側の大睡鴨島や長在島には延坪島を攻撃するための平曲射砲が配備されている。

近海はグチやワタリガニなどの好漁場となっているが、近年中国漁船の違法操業が問題となっている。

歴史
朝鮮王朝(李氏朝鮮)時代には黄海道に属する島であった。1896年(高宗33年)の地方行政制度改編の際に、黄海道海州郡松林面の属島となっている。

1938年、海州郡の中心部が海州府となった際、周辺部・離島部は碧城郡となった。1945年8月、日本の植民地統治が終焉を迎えると、38度線以南にあったこの島は南側の領域となり、対岸にある甕津半島とともに京畿道甕津郡となった。

朝鮮戦争によって甕津半島本土は北朝鮮軍が占領したが、延坪島は大韓民国にとどまった。1995年には仁川広域市に編入された。1999年7月20日、面の名は「松林面」から「延坪面」に改められた。

    
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